私は海外留学をしてテクノロジー関連の修士を取ることを最初から志していたわけではなく、相当な期間をかけて挑戦や挫折を繰り返してきた結果、今にたどり着いています。
なぜ留学するに至ったのかを前編・後編に分けてお伝えします。
前編は過去まで遡って時系列的に私の挑戦と失敗の繰り返しについて書かせていただきます。
長い割に中身はありませんが、すんなり留学したわけではなく、ブログのタイトルにある通りまさにMaze(迷路)に入り込んだ末に、当初目標としていた海外留学に到達したことをお伝えできればと思います。
もともと海外志向ゼロ
私は大学卒業するまで、幼少期に家族旅行で数回海外旅行に行った以外に、海外へ行ったことがほとんどありませんでした。理由はジェットコースターが苦手と同じような感覚で飛行機も苦手だったからという単純なものです(今も苦手)。
英語もいつか翻訳こんにゃくみたいなのができて、勉強しなくてもなんとかなるだろうという楽観的な将来見通しのもとでまったく勉強もせず、会社に入社時に受けたTOEICは500点くらい。
したがって留学はおろか海外にすらあまり興味がありませんでした。
MBAってかっこいい
大学3年生に読んだ経済小説で、海外MBAを取得して外資系投資銀行でバリバリ働いている登場人物を描いている場面があり、純粋な(単純な)私は、すぐに感化されてMBAというものに憧れのようなものを抱いたことがはじまりでした。
ただ前にも書いた通り、英語もろくに勉強してこなかった私にとっては、海外MBAは遠い”憧れ”でしかありませんでした。
きっかけは駅前留学
大学を卒業して、今の会社へ入社後最初に配属されたのは地方支店。友人もおらず暇を持て余していたところ、会社の制度で英会話教室へ通い始めると、グループレッスンで年下の高校生や大学生に英語でまくし立てられ意気消沈。。
毎回のレッスンで恥をかきたくないという動機で英語の予習復習をするようになりました。しばらく英会話教室に通っているうちにふと英語力がついている気がしてきたので、TOEICを受けてみたところなんと750点。生涯そんなスコアに到達するとは思っていませんでした。
これは留学も夢ではないかも。そう考え始めたのが、社会人3年目。
でもまだ”憧れ”の段階です。
絶対に追い付けない先輩の存在
地方支店で約3年間働いたあと、東京の支店に異動になりました。
そこである先輩との出会いが、私にとって留学が遠い”憧れ”から具体的な”目標”に変わったと言っても過言ではありません。
その先輩は頭脳明晰かつとてつもなく仕事ができ、後輩の面倒見も良いという、私にとっては留学と同じくらい遠い憧れの存在でしたが、その先輩が会社の社費留学制度の選考に合格し、世界トップクラスのビジネススクールに進学することになったのです。
身近なロールモデルがMBA留学したこともあり、自分も先輩のように頑張れば留学できるかもという淡い期待を抱き、苦手な営業も奮起し、英語も頑張って勉強して入社6年目にして社内選考に初挑戦。
しかし、結果は書類選考で不合格。。
世の中そんなに甘くはないと自覚しながらも、MBA留学を明確な”目標”としてまたチャレンジしようと思っていました。
不合格直後にまさかの異動
しかし、ここで大きな壁にぶつかります。
不合格の連絡を受けたあと2か月もしないうちに、異動の発令が出ました。
異動先は、人事部の人材育成を所管するチーム。まさに社費留学制度を運営しているチームだったのです。
私を人事に送り出してくれた上司も、人事部で最初に面談した人事担当の方も「人事部は選考する側だから、本人がチャレンジするのはかなりハードル高いと思うな、、」と言われ、なんと不本意な異動だろうかと腐った時期もありました。
「でも、人事部で2~3年勤務したあと、次に異動する部署でまたチャレンジできる可能性もある」と思い、目標を見失わずに勉強は続けようと思いました。
しかし、かなり忙しい部署だったのと、次いつチャレンジできるかわからない状態だったこともあり勉強に本腰入らず、口では留学に向けて準備していると言いながら、定期的にTOEFLを受けていただけの状態が2年程度続いてしまいました。
2度目の挑戦(MBA)
入社9年目に突入し、人事部での仕事は苦労しながらも自分で考えて形にできることが増えて充実感を感じていた時期に、当時の上司とのキャリア面談にて社費留学にもう一度チャレンジしたいと諦め半分で伝えてみました。
当時はちょうど中期経営計画の一環で人事の改革を行っていて、学びやチャレンジを積極的に支援していこうという雰囲気が強くなってきたタイミングだったこともあり、上司も「人事部員であっても一人の社員であり、キャリアにおける挑戦を阻むものではない」という考えを持ってくれて、人事では諦めかけていた社費留学制度に挑戦をさせてもらえることになりました。
そこから再び英語の勉強を開始し書類選考はクリア。しかし、人事部面接では緊張からかシドロモドロになってしまい、まったく思いを伝えられず、結果はまたも不合格。
完全に自分の準備不足。
せっかく挑戦できるチャンスをもらったのに、自分はこの数年間何をしてきたのかと本気で落ち込みました。
不合格の連絡をもらった直後に、冬季オリンピックが開催されているのをテレビでたまたま観たときに、スピードスケートの小平奈緒さん(同年代)が金メダルを獲っていました。
彼女がインタビューで
「4年前悔しい思いをしたので、この4年間はその悔しさをバネに努力をし続けた結果、その努力が実って本当に嬉しいです」
という趣旨の話をされていたのが当時の私の心に突き刺さり、「自分はこの4年間1歩も前に進められなかった」と猛烈な自己嫌悪に陥ったのを今でも鮮明に覚えています。
諦める理由探し
自分なりに当時考えらえる留学理由と、帰国後にやりたいことをシドロモドロながらも話した結果の不合格だったこともあって、次にチャレンジするきっかけを完全に見失い、
「うちの会社では、私の考えを理解してもらえない」
と完全に他責にして留学を諦めようとしている自分がいました。
今思えば、MBA留学=社費留学という発想しかなく、私費留学という考えを持っていなかった時点で、どこまで本気でMBAを獲りたいと思っていたのか。そういった点が面接でも伝わってしまったのだと思っています。
ここまでのまとめ
私の場合は留学というものを比較的早くから意識をし始めたものの、自身の意思の弱さや環境変化もあってかなりもがき苦しんだ時期が長かったです。
安易な憧れから早々に脱却して、目標を定めてコツコツ準備をすればもっと早く実現できていたとも思います。
一方で、留学を志し、そのモチベーションを維持するのは難しいことだとも思いました。
なぜならば、私が留学しなくても誰も何も困らないからです。会社での仕事はそれなりに順調でしたし、家庭も持って子供もいたので、「留学を諦めて仕事と家庭の両立頑張ります!」と言った方がむしろ周りにとってはプラスだったりするのです。
そこまでしてなんで留学をする”必要性”があるんだと。この問いに対して考え抜いたことが憧れや目標としての留学から、手段としての留学に変わり、最終的にそこに到達することができたのだと思います。
続きは後編で。ここから大きなマインドシフトが起きます。